Google よし、京都に行こう!: 8月 2014

2014年8月31日日曜日

京都市山科区|元慶寺(がんけいじ)

元慶寺(がんけいじ)

名 称:元慶寺(がんけいじ)

元慶寺は、京都市山科区にある寺院です。

藤原高子の発願により建立。

僧正遍昭を開基とし、元慶元年に建立されました。

現在の伽藍は安永年間の再建と伝わっています。

西国三十三所霊場の番外札所である。

本尊は薬師瑠璃光如来。

寛和2年、花山天皇がこの寺で藤原兼家、

道兼父子の策略により出家させられ、

兼家の外孫である懐仁親王が帝位についた。

花山法皇の宸影を安置する寺で花山寺とも呼ばれ、

大鏡では花山寺と記述されています。

2014年8月30日土曜日

京都市伏見区|醍醐寺三宝院(だいごじさんぽういん)


醍醐寺三宝院(だいごじさんぽういん)

名 称:醍醐寺三宝院(だいごじさんぽういん)

醍醐寺三宝院庭園は、京都市伏見区にある日本庭園です。

醍醐寺の院家である三宝院の庭園であり、

1952年に国の特別史跡および特別名勝に指定されました。

豪壮雄大な庭園は「醍醐の花見」に際しての秀吉の設計と

されました。

2014年8月29日金曜日

京都市伏見区|醍醐寺(だいごじ)

醍醐寺(だいごじ)

名 称:醍醐寺(だいごじ)

醍醐寺は、京都市伏見区にある寺院です。

古都京都の文化財として世界遺産に登録されています。

伏見区東方に広がる醍醐山に200万坪以上の広大な境内を

もつ寺院です。

豊臣秀吉による「醍醐の花見」の

行われた地としても知られています。

【 年中行事 】

醍醐寺の主な行事としては、

醍醐派が本家である壮大な屋外大護摩柴燈護摩を中心とした

施餓鬼法要が8月に厳修されるほか、

2月には同様に柴燈護摩を炊き上げて五大明王の功徳を讚える

「五大力尊仁王会」が厳修され併せて150キロ近い巨大な

鏡餅を持ち上げる力比べが行われることで有名です。

また豊臣秀吉の「醍醐の花見」にちなんで

現在も4月に全山を揚げての花見会が開催されています。

2014年8月28日木曜日

京都市山科区|随心院(ずいしんいん)

随心院(ずいしんいん)

名 称:随心院(ずいしんいん)

随心院は、京都市山科区にある寺院です。

小野流の開祖として知られる仁海(にんがい)の開基。

本尊は如意輪観音。

当寺の位置する小野地区は、小野氏の根拠地とされ、

隨心院は小野小町ゆかりの寺としても知られています。

【 小野小町ゆかりの遺跡 】

隨心院が所在する小野は小野氏の一族が栄えたところである。

宮中で仁明天皇に仕え歌人として知られる小野小町も

この地の出で宮中を退いて後も過ごしたとされています。

隨心院には小町の晩年の姿とされる卒塔婆小町像を始め文塚、

化粧の井戸などいくつかの遺跡が残っています。

2014年8月26日火曜日

京都市山科区|勧修寺(かんしゅうじ)

勧修寺(かんしゅうじ)

名 称:勧修寺(かんしゅうじ)

勧修寺は、京都市山科区にある寺院です。

皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院です。

庭は勧修寺氷池園という池泉庭園です。

中心を占める池は氷室の池といい蓮で知られており、

平安時代には1月2日にここに張った氷を宮中に献上して

その厚さによって五穀豊穣を占ったと言われています。

2014年8月25日月曜日

京都市山科区|岩屋神社(いわやじんじゃ)

岩屋神社(いわやじんじゃ)

名 称:岩屋神社(いわやじんじゃ)

岩屋神社は、京都市山科区にある寺院です。

本殿背後の山腹に奥之院あるいは岩屋殿と呼ばれる

陰陽2つの巨巌があり、これを磐座として祀ったのが

当社の起源です。

社伝では、仁徳天皇31年の創建と伝えられています。

寛平年間、陰巌に栲幡千千姫命、陽巌に天忍穂耳命を祀り、

岩前の小祠に饒速日命が祀られました。

これは、物部氏系の大宅氏が、

山科を開拓するに当たり祖神を祀ったものです。

治承年間に園城寺僧徒によって社殿が焼かれ、

旧記も失われました。

弘長2年に再建されました。

中世には「東西上の岩屋三社」と呼ばれていました。

2014年8月24日日曜日

京都市山科区|川崎大師京都別院笠原寺(りゅうげんじ)

川崎大師京都別院笠原寺(りゅうげんじ)

名 称:川崎大師京都別院笠原寺(りゅうげんじ)

川崎大師京都別院笠原寺は京都市山科区にある寺院です。

女性限定で一日尼僧の体験ができる寺です。

写経や読経、精進料理もございます。

笠原政江尼が1979年に開山し、

女性相手に人生相談などを行ってきたという。

鉄筋コンクリート入母屋造桃山様式の大本堂、

総ヒノキ造りの奥之院、水子供養の玉洗院がございます。

2014年8月23日土曜日

京都市山科区|大石神社(おおいしじんじゃ)

大石神社(おおいしじんじゃ)

名 称:大石神社(おおいしじんじゃ)

大石神社は、京都市山科区にある寺院です。

昭和10年、赤穂義士大石内蔵助良雄を祭神として建立されました。

赤穂藩家老であった大石が浅野内匠頭の刃傷事件の後、

赤穂より隠棲した地にある。

義士らの書や遺品が収蔵展示される宝物殿がございます。

しだれ桜の「大石桜」も有名です。

2014年8月22日金曜日

京都市山科区|双林院(そうりんいん)

双林院(そうりんいん)

名 称:双林院(そうりんいん)

双林院は、京都市山科区にある寺院です。

寛文5年、天台宗の僧である公海により創建されました。

【 年間行事 】

毎月1日、16日:月参り

2月:節分

9月16日:大般若祭

11月:もみじ祭り

2014年8月21日木曜日

京都市山科区|毘沙門堂(びしゃもんどう)

毘沙門堂(びしゃもんどう)

名 称:毘沙門堂(びしゃもんどう)

毘沙門堂は、京都市山科区にある寺院です。

大宝3年、行基の創建という古刹。毘沙門天が本尊。

信長の兵火で全焼したのち、

天台宗の僧・天海。公海により現在地に1665年再興されました。

後にし天皇の皇子公弁法親王が晩年に隠棲、

以後門跡寺院として、毘沙門堂門跡と呼ばれ、

天台宗五門跡の一つとなりました。

京都七福神の一つです。

「毘沙門しだれ」をはじめとして、

桜、つつじ、椿、紅葉など、美しい花々で名高い。

2014年8月19日火曜日

京都市伏見区|寺田屋(てらだや)

寺田屋(てらだや)

名 称:寺田屋(てらだや)

慶応2年正月21日

坂本龍馬が長府藩士・三吉慎蔵と寺田屋にいたが、

明け方2時頃、一階で入浴していたお龍窓外の異常を察知して

二階に駆け上がり二人に知らせた。

伏見奉行の捕り手が屋内に押し入った、

龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を三吉は長槍をもって

応戦するが、多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られ、

両人は屋外に脱出した。

負傷した龍馬は材木場に隠れ、

三吉は伏見薩摩藩邸に逃げ込み救援を求め救出された。

寺田屋は鳥羽伏見の戦に罹災し,

現在の建物はその後再建したものです。

2014年8月18日月曜日

京都市伏見区|海宝寺(かいほうじ)

海宝寺(かいほうじ)

名 称:海宝寺(かいほうじ)

海宝寺は、京都市伏見区にある寺院です。

【 境内 】

仏殿:宝暦14年(1764年)建立。

方丈:宝暦14年(1764年)建立。

内部には伊藤若冲が晩年に制作した障壁画「群鶏図」があったが、

現在は京都国立博物館所蔵となっています。

障壁画のあった部屋は「若沖筆投げの間」と呼ばれています。

祠堂:大丸関係者の位牌を祀っている建物。

手水鉢:豊臣秀吉遺愛のものと伝える。

木斛:仏殿前にあり伊達政宗手植えの木と伝えられる。

当寺は普茶料理で知られ、

山門には「普茶大本山開祖道場」の札が掛かる。

2014年8月12日火曜日

京都市伏見区|大善寺(だいぜんじ)

大善寺(だいぜんじ)

名 称:大善寺(だいぜんじ)

大善寺は、京都市伏見区にある寺院です。

京都府宇治市六地蔵の地名の由来となりました。

【 文化財 】

重要文化財( 国指定 )

・木造地蔵菩薩立像( 平安時代 )

2014年8月11日月曜日

京都市伏見区|西岸寺(さいがんじ)

西岸寺(さいがんじ)

名 称:西岸寺(さいがんじ)

西岸寺は、京都市伏見区にある寺院です。

昔、油売りの商人が地蔵の前で転んでほとんどの

油を流してしまった。

仕方なく残りの油を傍らの地蔵にかけて立ち去ったところ

商売繁盛したという。

この噂が信仰を呼び、今でも油をかけ参拝する人が絶えない。

境内には芭蕉の句碑もございます。

2014年8月10日日曜日

京都市伏見区|西運寺(さいうんじ)

西運寺(さいうんじ)

名 称:西運寺(さいうんじ)

西運寺は、京都市伏見区にある寺院です。

1596年に伏見に開基されました。

「狸寺」として有名です。

幕末期、

住職が裏山のタヌキを「八」と名付けて可愛がっていました。

近くの俳人、歌人、画家らが見物に訪れたという。

京焼の名工高橋道八がタヌキの焼物を寄進。

住職の狸の置物コレクションとともに収蔵展示されています。

2014年8月9日土曜日

京都市伏見区|辨財天長建寺(べんざいてんちょうけんじ)

辨財天長建寺(べんざいてんちょうけんじ)

名 称:辨財天長建寺(べんざいてんちょうけんじ)

辨財天長建寺は、京都市伏見区にある寺院です。

【 寺宝 】

・八臂弁財天

本尊、秘仏毎年元旦から15日間のみ開帳。

8本の腕を持った音楽・財富・智恵・延命を司る弁天様。

・裸形弁財天

脇仏

・賓頭盧尊者

なで仏は、釈迦の弟子で十六羅漢の一人。

2014年8月8日金曜日

京都市伏見区|御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)

名 称:御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)

御香宮神社は、京都市伏見区にある寺院です。

初めは「御諸神社」と称した。

創建の由緒は不詳であるが、

貞観4年に社殿を修造した記録がある。

伝承によるとこの年、境内より良い香りの水が湧き出し、

その水を飲むと病が治ったので、

時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという。

実際には菟芸泥赴によると、

「筑前国糟谷郡の香椎御宮から神功皇后を勧請し

皇后御廟香椎宮を略し、御香の宮と申す」とあり

筑紫の香椎宮をこの地に分霊し勧請した説の方が有力であるが

神社側は説の一つにに過ぎないとして否定しています。

この湧き出た水は「御香水」として名水百選に選定されている。

全国にある「香」の名前のつく神社は、

古来、筑紫の香椎宮との関連性が強く神功皇后を祭神とする

当社は最も顕著な例である。

本殿には、菊の御紋や五七の桐紋、葵の御紋が見られます。

2014年8月7日木曜日

京都市伏見区|石峰寺 (せきほうじ)

石峰寺 (せきほうじ)

名 称:石峰寺(せきほうじ)

石峰寺は、京都市伏見区にある寺院です。

寺の境内裏山にある五百羅漢の石像群は、

絵師の伊藤若冲が下絵を描き、

当寺の住職と協力して制作したもので、

「若冲五百羅漢」としていまも親しまれています。

また観音堂の格天井には若冲が天井画を描いた。

しかしこれらの絵は明治期はじめ、

廃仏毀釈の嵐のなかで処分され、いまは他寺に現存している。

若冲は寛政12年9月10日、

85歳の生涯を石峰寺門前の自宅で閉じ、同寺に葬られました。

2014年8月5日火曜日

京都市伏見区|藤森神社(ふじのもりじんじゃ)

藤森神社(ふじのもりじんじゃ)

名 称:藤森神社(ふじのもりじんじゃ)

藤森神社は、京都市伏見区にある寺院です。

5月5日に行われる駈馬神事や、

菖蒲の節句の発祥地として名高い。

6月から7月にかけて紫陽花苑が公開され、

3,500株にもおよぶ紫陽花が見ものです。

境内には名水といわれる「不二の水」が涌き出ています。

2014年8月4日月曜日

京都市伏見区|東丸神社(あずままろじんじゃ)

東丸神社(あずままろじんじゃ)

名 称:東丸神社(あずままろじんじゃ)

東丸神社は、京都市伏見区にある寺院です。

伏見稲荷大社の側にあり、

江戸時代の国学者で稲荷社祠官羽倉家に生まれた荷田春満を

祀る神社です。

春満は門下に賀茂真淵がおり、

本居宣長、平田篤胤と共に国学四大人の一人です。

学問の神として信仰を集めており、

入試合格や学業上達を祈願する絵馬がびっしりと懸けられてい

ます。

2014年8月3日日曜日

京都市伏見区|伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)

伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)

名 称:伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)

伏見稲荷大社は、京都市伏見区にある寺院です。

旧称は稲荷神社。

式内社、二十二社の一社です。

旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁に属さない単立神社です。

稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。

全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社です。

初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集めます。

現存する旧社家は大西家。

外国人観光客からも観光地として人気があり、

「トリップアドバイザー」による2014年の

「外国人に人気の日本の観光スポット」調査では、

1位を獲得しています。

2014年8月2日土曜日

京都市南区|綜芸種智院跡(しゅげいしゅちいんあと)

綜芸種智院跡(しゅげいしゅちいんあと)

名 称:綜芸種智院跡(しゅげいしゅちいんあと)

綜芸種智院は、空海が天長5年に藤原三守の九条邸に創設した

平安初期の私立学校です。

当時の大学・国学への入学については厳格な身分制限があり、

民衆が学問を志すことは非常に困難であったが、

こういった人々のために設置されたものです。

空海自筆の「綜芸種智院式」で知られています。

空海は仏書や儒書の講義を行い、

当時としては画期的な学問所でした。

承和2年に空海が62歳で没して廃絶しました。

2014年8月1日金曜日

京都市南区|城興寺(じょうこうじ)

城興寺(じょうこうじ)

名 称:城興寺(じょうこうじ)

城興寺は、京都市南区にある寺院です。

歴史的名称では成興寺とも書きます。

太政大臣藤原信長の邸宅を、永久元年に寺に改め城興寺と

しました。

当初は鎮護国家の道場であったが、

天台宗となり延暦寺の管理に属したが、

応仁の乱で焼失、現在は本堂のみが残る。

本尊千手観世音菩薩は、慈覚大師円仁が承和五年、

遣唐使の一員として入唐した時、

無事の帰朝を念じて船中で造作したといわれています。


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