11月18日、今日の京都市左京区は雨のち曇り時々雨。
北大路通りを北から南へ、
横断歩道を渡ろうと信号待ちをして立っている私の横に、
ビニール傘をさした賑やかな女子高生グループが並ぶこととなった。
その賑やかさは、少しトゲのあるものだった。
「姑息だよねー!」
「ムカつくんやけど」
「あのやり方は卑怯やわ!」
どうやら皆さん、意気投合。
でもね。
お嬢さん、その言葉の使い方、たぶん間違ってますよ。
私の中で、使いたいけどうまく使えない言葉の1つに、
この「姑息 こそく」という言葉があります。
私も若い頃はこのお嬢さんと同じで、
「卑怯」という意味で使うものだと思い込んでいました。
そしてある時、
姑息とは、『しばらくの間、息をつくこと。
転じて、一時のまにあわせに物事をすること。また、そのさま。
一時しのぎ。その場のがれ。』
だということを知りました。
「姑息なやり方ばかりで,あいつはひきょうなやつだ。」
の解釈が
「一時しのぎなやり方ばかりで・・・」
が転じて
「卑怯なやり方ばかりで・・・」
になったと考えられているようです。
では、なぜ、「姑息」とは「一時しのぎ」なのか?
「姑息」は「礼記らいき」(檀だん弓ぐう上)の故事にある、
孔子の門人、曽子の言葉に由来していたのです。
『病床にあった曽子は,自分の寝台に,
身分と合わない上等なすのこを敷いていました。
お付きの童子にそのことを指摘された曽子は,
息子の曽元にすのこを取り替えるよう命じます。
曽元は,父の病状の重いことを考慮し,
明朝,具合が良くなったらにしましょうと答えます。
それに対し,曽子は,お前の愛は童子に及ばないと,次のように言いました。
「君子の人を愛するや徳を以もってす。細人の人を愛するや姑息を以もってす。」
(君子たる者は大義を損なわないように人を愛するが,
度量の狭い者はその場をしのぐだけのやり方で人を愛するのだ。)
その場にいた者たちは,曽子を抱え上げてすのこを取り替えますが,
彼は間もなく亡くなってしまいました。
曽子は,一時しのぎの配慮に従って生き長らえるよりは,
正しいことをして死ぬ方がよいと考えたのです。』
なるほどねー。
そんなとこから来た言葉だったんですね。
「姑と息子」とか「姑の息」とか、
漢字から考えてたら、一生正しい意味に行き着けなかったよ。
でもやっぱり使いにくいから、
もしかしたら一生使わないかも。
(´・∀・`)
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